岩手・大槌の追悼施設「あえーる」 名付け親は津波にのまれた元教育長

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伊藤正治さんが愛称を発案した東日本大震災の追悼施設。入り口に「あえーる」と掲示されている=岩手県大槌町で2025年7月25日、奥田伸一撮影
伊藤正治さんが愛称を発案した東日本大震災の追悼施設。入り口に「あえーる」と掲示されている=岩手県大槌町で2025年7月25日、奥田伸一撮影
追悼施設「あえーる」の地図
追悼施設「あえーる」の地図

 東日本大震災で人口の1割近くが犠牲になった岩手県大槌町で5日、町営の追悼施設が開設された。施設の愛称は公募で選ばれた「あえーる」。軽やかなネーミングだが、津波にのまれながらも助かった男性の願いがこもっている。

 名付け親は大槌町で生まれ育った伊藤正治さん(76)。町で小学校の教諭を長く務め、震災当時は町の教育長だった。愛称の募集があったのは昨春で、ちょうど、震災への思いを形にしたいと思っていたところだった。

 幼少時の経験、震災時に津波の直撃を受けた体験と後悔、地元への愛着や期待――。伊藤さんの脳裏には、言葉を紡ぐ基となるたくさんの体験や思いが刻まれていた。

岩手県大槌町の追悼施設の愛称「あえーる」を発案した伊藤正治さん。震災当時の記憶を克明に語った=盛岡市で2025年7月17日、奥田伸一撮影
岩手県大槌町の追悼施設の愛称「あえーる」を発案した伊藤正治さん。震災当時の記憶を克明に語った=盛岡市で2025年7月17日、奥田伸一撮影

 14年前の3月11日は、高台の公民館にあった教育委員会にいた。午後2時46分、「地底から突き上げ、ねじれるような激しさ」の揺れを感じ、災害対応が必要だと直感した。

 400メートルほど離れた町役場の対策本部へ向かい、潮位計のモニターをチェックしていたら男性職員の怒声が響いた。「津波だ!」。地震から約30分後のことだった。

 窓越しに、真っ黒な波が押し寄せてくるのが見えた。津波は窓を破って流れ込んできた。伊藤さんは波にのまれ、2階の副町長室の壊れた壁に左足を挟まれて動けなくなった。

 しばらくして水かさが増し、壁が水圧で浮き上がったことで足が壁から抜けた。壁がぶつかって開いた天井の穴を手で広げ、屋根裏によじ登ったが、屋根裏にも津波が迫り「とまれ、とまってくれ」と叫んだ。幸運にも胸の高さで海水が止まったため、自力で屋上まで移動することができた。

 ふと海の方に目をやると、男性職員が沖に流されながら海中に沈んでいった。職員は力尽き、無念そうな表情を浮かべているように見えた。助けを求めることもなく姿を消した光景が目に焼き付いている。

伊藤正治さんが震災について記録したノートには、津波にのまれた状況が手描きの絵入りで記されている。「溺れ死ぬのは確実であった」との一文も=岩手県釜石市で2025年7月29日、奥田伸一撮影
伊藤正治さんが震災について記録したノートには、津波にのまれた状況が手描きの絵入りで記されている。「溺れ死ぬのは確実であった」との一文も=岩手県釜石市で2025年7月29日、奥田伸一撮影

 震災翌日、記録用のノートにこう記した。「何もできずにただ見ているだけの自分が情けなくもあり、悔しくもあり、目の前の光景が理解できなかった」

 大槌町では、当時の人口の約8%にあたる1286人が犠牲になった。伊藤さんは親戚や幼なじみ、教え子ら20人以上を失った。町長や町職員計40人も流されて亡くなった。

 震災後は被害情報の収集や物資の受け入れ、行方不明者の捜索といった対応に追われた。目が回る忙しさのなか、伊藤さんは不思議な感覚に襲われた。町ですれ違う人に、犠牲になった親戚や友人の面影を感じた。心の中にあった「あの人に会いたい」という願いがそう感じさせたと思っている。

 震災翌年に発行された小中高生の文集には「お世話になった人をたくさん失った。似ている人を見ると思わず振り返ってしまう」とつづられていた。「会いたいと願う気持ちはみんな一緒だ」と確信した。

東日本大震災の追悼施設「あえーる」には、仮設住宅に置かれた地蔵も移設された=岩手県大槌町で2025年7月25日、奥田伸一撮影
東日本大震災の追悼施設「あえーる」には、仮設住宅に置かれた地蔵も移設された=岩手県大槌町で2025年7月25日、奥田伸一撮影

 施設名の「あえーる」は、「応援」を意味するエールと重なる。犠牲者に会える場という意味と、古里を応援する気持ちを込めた。後世に語り継いでもらいたいとの思いから、若い世代に親しまれるように平仮名を選んだ。

 「あえーる」の正式名称は鎮魂の森。大槌湾に面した、高さ14・5メートルの防潮堤そばの大槌町須賀町に整備された。広さ1・45ヘクタールの敷地には犠牲者の芳名碑が設置され、クロマツなど地元で見られる木々が植えられる。

 伊藤さんは大槌町内の小学6年生だった1960年5月、南米チリ近海を震源とする地震の津波を経験した。高台へ避難し家族は無事だったが、近所の家が流された光景を覚えている。

 この経験があるのに、周囲に避難を呼びかけないまま低地にあった町役場へ行ったことを悔いている。教育長として、校外にいた児童生徒に犠牲者が出たことも痛恨の極みだ。

 だからこそ「あえーる」は、犠牲者と触れ合う場所であると同時に、震災について語り合い、教訓を共有する場になってほしいと願っている。施設を訪れることで、町を応援する気持ちを持ってもらいたいとも思う。伊藤さんは「これからの災害への備えにつながる場にもなってほしい」と話している。【奥田伸一】

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