
頭の中にイメージはあるが、それをキャンバスに落とし込もうとすると描くことができず、葛藤から絵筆がなかなか進まない。人によっては、一つの作品の完成までに100時間以上を費やす。
それでも若者らは、被爆者から原爆被害を聞き取り、絵画で継承する活動に取り組んでいる。
「日本語を話さない世界の人々にも伝わるよう、言語の壁を越えて被爆者の生きた証しを残したい」
80年前の被爆の実相に向き合い続ける原動力がそこにあった。
活動をしているのは、広島市立基町(もとまち)高の生徒。その一人、3年生の松岡瞳美さん(18)は今回初めて参加した。
絵の題材にしたのは、3歳で入市被爆した脇舛(わきます)友子(ともこ)さん(83)=広島県熊野町=の被爆体験だ。
体験談に耳傾け
1945年の8月6日だった。脇舛さんが、県北部の山あいにあった母の実家から列車で呉(くれ)市の自宅に戻る途中で、列車が動かなくなった。線路を伝って、歩いて広島市に向かうことになった。
歩き出してしばらくすると、市内の方角から皮膚がただれた人、目が飛び出した人など、被爆者が何人もよたよたと歩いてくるのが見えた。
その光景におびえていると、後ろから母親が手で目を覆い隠してくれた。
体験談を語る脇舛さんの表情は優しかった。松岡さんらは、じっと耳を傾けた。
脇舛さんが歩いた線路沿いの場所は現在、松岡さんが住む自宅周辺で、なじみのある場所だった。
脇舛さんの言葉を一つ一つ振り返ったが、現状の光景しか知らない自分には、すぐに思いをはせることができなかった。
同時に、こんな思いに駆られた。
「被爆体験を聞き、自分が毎日目にする光景との違いを想像して、油絵を描いてみたい」
進まぬ絵筆
2024年10月、制作に取りかかった。
ところ…
Comments