「生きた証し世界に」被爆証言油絵に 描いた高校生の葛藤と納得

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脇舛友子さんの被爆体験を基に描いた絵を前に現在の心境などを語る、広島市立基町高3年の松岡瞳美さん=広島市中区の同校で2025年7月28日午前10時39分、佐藤賢二郎撮影
脇舛友子さんの被爆体験を基に描いた絵を前に現在の心境などを語る、広島市立基町高3年の松岡瞳美さん=広島市中区の同校で2025年7月28日午前10時39分、佐藤賢二郎撮影

 頭の中にイメージはあるが、それをキャンバスに落とし込もうとすると描くことができず、葛藤から絵筆がなかなか進まない。人によっては、一つの作品の完成までに100時間以上を費やす。

 それでも若者らは、被爆者から原爆被害を聞き取り、絵画で継承する活動に取り組んでいる。

 「日本語を話さない世界の人々にも伝わるよう、言語の壁を越えて被爆者の生きた証しを残したい」

 80年前の被爆の実相に向き合い続ける原動力がそこにあった。

 活動をしているのは、広島市立基町(もとまち)高の生徒。その一人、3年生の松岡瞳美さん(18)は今回初めて参加した。

 絵の題材にしたのは、3歳で入市被爆した脇舛(わきます)友子(ともこ)さん(83)=広島県熊野町=の被爆体験だ。

体験談に耳傾け

 1945年の8月6日だった。脇舛さんが、県北部の山あいにあった母の実家から列車で呉(くれ)市の自宅に戻る途中で、列車が動かなくなった。線路を伝って、歩いて広島市に向かうことになった。

 歩き出してしばらくすると、市内の方角から皮膚がただれた人、目が飛び出した人など、被爆者が何人もよたよたと歩いてくるのが見えた。

 その光景におびえていると、後ろから母親が手で目を覆い隠してくれた。

 体験談を語る脇舛さんの表情は優しかった。松岡さんらは、じっと耳を傾けた。

 脇舛さんが歩いた線路沿いの場所は現在、松岡さんが住む自宅周辺で、なじみのある場所だった。

 脇舛さんの言葉を一つ一つ振り返ったが、現状の光景しか知らない自分には、すぐに思いをはせることができなかった。

 同時に、こんな思いに駆られた。

 「被爆体験を聞き、自分が毎日目にする光景との違いを想像して、油絵を描いてみたい」

進まぬ絵筆

 2024年10月、制作に取りかかった。

 ところ…

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