「核の恐ろしさ知って」 遺族が託す原爆の実相 寄贈続く資料館

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爆心地から680メートル地点付近で被爆し、1年半後に近くの図書館の地下室で発見された渡田肇さん(当時16歳)の腕時計=広島市の原爆資料館で2025年6月17日、佐藤賢二郎撮影
爆心地から680メートル地点付近で被爆し、1年半後に近くの図書館の地下室で発見された渡田肇さん(当時16歳)の腕時計=広島市の原爆資料館で2025年6月17日、佐藤賢二郎撮影

 広島平和記念資料館(原爆資料館、広島市中区)には、原爆投下からまもなく80年となる現在も、遺族らから原爆にまつわる資料の寄贈が途切れることなく続いている。近年は年間に数十件の寄贈があり、今年度は7月末までで既に約20件が寄せられた。遺族らは「核兵器の恐ろしさを伝えることに役立ってくれたら」との思いを込めている。

時が止まった腕時計

爆心地から680メートル地点付近で被爆し、1年半後に近くの図書館の地下室で発見された渡田肇さん(当時16歳)の腕時計と財布、硬貨、ハンカチ=広島市の原爆資料館で2025年6月17日、佐藤賢二郎撮影
爆心地から680メートル地点付近で被爆し、1年半後に近くの図書館の地下室で発見された渡田肇さん(当時16歳)の腕時計と財布、硬貨、ハンカチ=広島市の原爆資料館で2025年6月17日、佐藤賢二郎撮影

 年の瀬が迫った2024年12月、原爆資料館の一室。広島県廿日市市の真庭美恵子さん(84)は兄の渡田肇(はじむ)さんの遺品を持ち込んだ。文字盤がさびた腕時計は広島に原爆が投下された午前8時15分付近を指したまま。血と思われる染みが残ったハンカチや、色あせた革の財布などもある。「よく残っていたな」。受け取った高橋佳代学芸員は息をのんだ。

 資料館では寄贈を受ける時、遺品であれば生前の原爆被害者の様子などを細かく聞き取って文書にまとめ、資料と一緒に保管する。高橋学芸員は「家族構成や趣味、好きだった食べ物まで聞いて、パズルのピースをつなぎ合わせるようにそれぞれの人生を浮かび上がらせる」と語る。この日も、1時間以上にわたって、肇さんがどんな人生を歩んだのかや真庭さんの思いを聞いた。

 真庭さんは原爆投下時まだ幼く、兄の記憶はほとんどない。戦後、両親は肇さんについて何も語ろうとしなかったため、自分に兄がいるという感覚も希薄だった。被爆状況について知ったのは小学生の頃、父市助さんが知人に話すのを偶然聞いてからだった。

 1945年8月6日、当時16歳だった肇さんは、廿日市市の自宅を離れて、学徒動員で爆心地から約680メートル離れた場所で作業していたとみられる。広島市の方向にキノコ雲を見た市助さんは、その日の午後から連日のように広島市内に入って肇さんを捜し回ったが見つからなかった。

 原爆投下から1年半後、肇さんは学徒動員先の近くにあった図書館の地下室で、同級生と一緒にミイラ化した状態で発見された。

渡田肇さんの遺影=遺族提供
渡田肇さんの遺影=遺族提供

 時計やハンカチなど肇さんが身につけていたものは仏壇の引き出しの中にしまわれ、母トミヨさんは、毎日仏壇に手を合わせていた。真庭さんは遺品の存在は知っていたが、中身を見ることはなかった。両親が亡くなり、真庭さんが50代の頃、家の建て替えをした時に、気になってじっくりと見てみた。

 「私にも兄がいたんだ」。遺品を見ているうちに、記憶の奥底に眠っていた肇さんとの断片的な思い出が立ち現れた。外で遊んでいた真庭さんを夕方に迎えに来てくれた時の立ち姿、けがで入院した肇さんを母と一緒に見舞った時の様子――。「あの地下室で、兄はどれだけ苦しい思いをして、何を考えていたのだろうか」。改めて思いをはせた。

 真庭さんは、資料館が遺品の寄贈を呼びかけるニュースを見て迷わず電話した。「将来処分されることになっては兄や両親に申し訳ない。兄の遺品を核兵器の恐ろしさを伝えることに役立てて、核廃絶につなげてほしい」

原爆孤児の遺品

静間美智子さんが原爆資料館に寄贈した、夫清人さんが持っていた家族の戦災死証明書=広島市の同館で2025年6月17日午前10時48分、佐藤賢二郎撮影
静間美智子さんが原爆資料館に寄贈した、夫清人さんが持っていた家族の戦災死証明書=広島市の同館で2025年6月17日午前10時48分、佐藤賢二郎撮影

 広島市西区の静間美智子さん(84)は24年10月、その約2年前に亡くなった夫清人さんが持っていた家族の「戦災死証明書」を資料館に寄贈した。清人さんは原爆で母、妹、弟を失って原爆孤児となった。証明書には亡くなった3人の生年月日などが記されている。

 清人さんは全身に無数のガラスが刺さり、自らむしり取ったという。戦後は親戚の家で肩身の狭い思いをし、中学を卒業してすぐに働きに出た。自らの体験はほとんど周囲に語らず、生前は平和記念公園や資料館に近付こうとしなかった。

 清人さんが亡くなった後、仏壇の整理中に証明書を見つけ、寄贈を決めた。静間さんは「証明書を見て、原爆は生き残った人のその後の人生も大変にしたということを知ってもらいたい」と語った。

 24日で開館70年を迎える資料館は近年、修学旅行生に加えて外国人観光客が急増しており、24年度の来館者数は226万人を超えて過去最多となった。原爆に関連する約2万2000点の資料が収蔵され、定期的に入れ替えて展示している。高橋学芸員は「寄贈品は大切な人の代わりになる物で、本当なら遺族らが手元に置いておきたい物。それでも持ってきてくださる思いを大切にして、しっかりと保管し、展示していきたい」と話している。【川原聖史】

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